とある男友達が聞く。
「オマエは俺が死んだら泣くか?」
「オマエの前で死んだら、お前はどうする?」

「知らない。でも、あんたはの為には泣かない
 ね。それはわかるよ」
そう答えると笑う。
微かにだけど、私の気持ちがないのを感じてるんだろうか?
それとも、強がってるとでも思ってるんだろうか?
彼がどう思ってようが、私には興味がない所なので、敢えて聞きたいとは思わない。

どうしてそんなに「死」を軽く考えられるんだ?
「死」と言う名の武器を振りかざさないと、
女の興味を引けないくらい臆病なのか?
そもそも、そんな簡単に「死」と言う言葉を口にしてはいけないものだ。

なのに、どうして私が嫌がるのを知ってて言うのか?
その位強く思ってると言うアピールにしては、芸がなさ過ぎる。

誰かの為に死ねるのが「愛」と言うものの形の1つにあるのなら、
私は喜んで放棄しよう。
命の代償を持ってしての「恋」だの「愛」だのいらない。
そんな言葉に振り回されてやる程、甘くも優しくもない。
「死」を持ってして表現できるのが究極とでも言うのか?
相手の為に自分の命を差し出せる、それが究極なのか?

私の答えは否!!
人の為の、最愛の人の為の死が尊いとは思えない。
「誰かのための死」
そんなの。。。。。あってはいけない。
誰かのために。。。。なんてのは結局、自分一人の究極の自己満足だ。

そこまでできる自分。
こんなに強く思っている自分。
誰かの為に何かをできる自分。
そう思っていたいのだろう?
だから安直に言葉の武器を振りかざすのだろう?
「いかにも」と証明したいが為に。
何事も突き詰めていけば、最終的には自己満足に突き当たる。

けれど、「恋愛」をするためには“相手”が必要であって、
自己満足の為に相手が存在する訳ではない。
自己満足が望みだけの「愛」は「愛」でない。
それを「愛」と言い切るのは傲慢だ。
相手と作り上げるモノが、まだ「愛」であって、
自己満足の為に得れるモノは「偽りの愛」だ。
「命」という言葉の重みと、人の気持ちなんて量るものでもない。
そうまでしなくても「気持ち」を伝える手段はいくらでもある。
軽々しく言葉の武器を振りかざして、勘違いするな。
そんな薄っぺらいモノなんていらない。
そんな「愛」があるとしたら「まやかし」に過ぎない。
言葉に表せるだけが、目に見えるモノだけが「愛」ではない。
「愛」を伝えたいなら、感じたいなら、相手と関わる事だ。
関わりを続ける事だ。

「死」はそれを放棄するという事。

そんな「愛」は認めない。

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